メルツェデスと赤ワイン

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かなり昔の話になるが、日本に滞在していたイギリスの若者と友達になった。自分はその頃毎年のようにイギリスに一人でフラフラ飲みに行ってたので、「今度行く時は俺の家に遊びに行っておいでよ」とその友達が言ってくれた。「ママが歓迎してくれるよ」と。

ロンドンから地下鉄で、一律の料金を超えたZoneだったと思う。けっこう遠い郊外だった。駅で待ち合わせしてたらその友人の母親がメルツェデスで迎えに来てくれた。190Eだったか、Cクラスだったか…、詳しくは忘れたが、まあ、そんなことはどうでもいい、小型のメルツェデスのセダン。今もMTが多いヨーロッパで、残念ながらATだったが、彼女はさっそうとそれを乗りこなしていた。「メルツェデスなんて素敵ですね」と助手席から称えると、彼女は「コーヒーの貿易をしているのよ」と運転しながら答えた。

メルツェデスは閑静なロンドン郊外の街中を巡り、よくあるショッピングモールの立体駐車場に入った。日本でいうイオンのようなもんだ。彼女はまず食事に誘ってくれた。ショッピングモール内にあるイタリアンレストラン。お互いパスタをオーダーした。そして自分は赤ワインも注文した。彼女に「飲まないんですか?」と尋ねると、「飲酒運転になるから」と。もっともな話だが、海外ならけっこうアバウトなところもあるから、大丈夫だと思っていたけど、ここイギリスでも飲酒運転に関しては厳しいらしい。自分だけ飲むというちょっと肩身が狭い思いをしながら会話を交わし、彼女を眺める。そう、とにかく彼女は美しい。言ってみれば、”友達の母ちゃん”なのだが、惚れてしまうほど若く美しい。黒人で、小柄で顔も小さく、とてもキュートなのだ。ミッション・インポッシブル3でトム・クルーズと共演したヒロインを彷彿とさせる。ボンドガールのようだ。察するに離婚しているようだが、赤ワイン越しに見る彼女は、女手一つでコーヒーの貿易で財を成し、息子を養い、メルツェデスをさっそうと乗り回すそのキュートさと強さのギャップに感心しきりだった。

ショッピングモールを後にして、自宅へ招いてくれた。丘と緑の芝生が広がる閑静な住宅街。立派なレンガ作りの家だ。ガレージには旧式の日産マーチがあった。ここイギリスではマイクラと呼ぶ。今は日本にいる友人の車だ。ははは(笑)、こんなかわいい中古車に乗っているのかと。(帰国してから友人にそのことを話したらマイクラは最高だよ、なめんなよ!と英語で言っていた)。

ダイニングキッチンでお土産に持って行った日本酒をプレゼントするとすごく喜んでくれた。日本に行ったことが無いし、もちろん日本語もできないけど、日本が大好きなのだ。「この辺りじゃ日本人は珍しいのよ。もっと早くから分かっていれば友達も呼んでくれば良かったわ」。広いリビングに招いてくれて、ソファに座ってコーヒー片手に正面のテレビをつければ、日韓共催のワールドカップの中継が。相手チームは忘れたが、ポルトガル戦だった。「私、フィーゴの大ファンなの」と彼女は目をキラキラさせながら言った。サッカーが好きというだけでなく、一女性として、フィーゴといういかにも屈強な男に惚れているようだった。

メルツェデスは”ベンツ”というお堅い響きを嫌ったダイムラー自身が女性の名前を冠したネーム。アジアの成金主義や日本のヤクザの乗る車はあくまで”ベンツ”だけど、高貴で美しい本来のダイムラー・ベンツはメルツェデスなのだ。欧米で”ベンツ”と言っても、通じない。そんなクルマは強く美しい女性と赤ワインが似合う…。

それからの記憶はない。でも、ロンドンに戻って、パブで飲んでいたら、一人の男が「どうしてこんなところにいるんだ?」と強い口調で聞いてきた。自国で4年に一度のサッカーの祭典が開かれているというのにイギリスにいるなんて。そりゃそうだ、サッカー発祥の地、イギリス人にとっては当然の疑問。メルツェデスと赤ワインから、ビールとフィッシュ&チップスという現実に戻って、苦笑いするしかなかった。